小さな手が教えてくれたもの 〜GCEDについて考える〜

ミャンマーのシャン州にある小さな村の修道院で子供たちとGCED (Global Citizenship EDucation) の動画を見て話し合った。

GCEDは2012年に国連が提唱し、UNESCOが2014年から始めたプロジェクトだ。このコンセプトはインターネット技術が進歩しテキストから画像へ、画像から動画へ、より大量の情報をさまざまな形態で瞬時にやりとりできるようになり、地球の裏側のことさえ小窓から見ることのできる時代になったからこそ生まれたものだ。

彼らとの会話を通して僕が感じたのは「言語の壁」だった。

インターナショナルスクールで英語を主要言語として話す僕らは、現地の子供達にどれだけ自分の考えを伝えられたのか、またどれだけ彼らの思いを受留めることができたのか。

もちろんGoogle翻訳を駆使してコミュニケーションを試みたが、ICTを介しての会話に限界を感じざるをえなかった。

また、あやとりで一緒に遊んだとき、彼らの小さな手を見て一瞬怯んだ。

僕の半分ほどの小さな手は、土で真っ黒に汚れ、驚くほどごつごつと硬かった。

僕の友人は、国籍も人種も肌の色もみんな違うが、皆な、一様に柔らかく綺麗な手をしている。僕は「Diversity」の中で学んでいるようでいて、実際はそうではなかった。

僕は「お金持ちで英語が話せる子供たちのパーティ」に所属しているに過ぎなかった。

僕はそのとき、自分にある種の傲慢さを感じた。

僕はベトナムやミャンマーを実際に見たからこそ、彼らに過去の先進国の辿ってきた発展の道をなぞらせてはいけないと感じている。彼らは情報も何もない本当に小さな村の中にいても、自分のアイデンティティを持っていた。先進国の発展を彼らに押し付けようとすれば必ず不幸な行き違いが起こる。

インターネットで世界を知ることはできない。実際に会って、見なければわからないことがある。自分の居場所で枠組みの中で考え続けていては、どれだけGCEDが理想であったとしても、行動は的外れなものになってしまう。

この動画が語るGlobal Citizenshipは頭でっかちになり得る。

インターネットは小窓にすぎない。本当の意味でGlobal Citizenshipを作るのであれば、眺めるだけでなく、相手を尋ねる必要がある。

彼らの小さな手がどんな幸せを掴むのか、僕はこれからも関心を持っていきたい。




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